■ 村民鉄道を呪う ~桃観トンネルの大惨事 大正7年の北但大風水害~
前回のレポートは桃観トンネルの賛美したことばかり書きました。その後 先人記念館以命亭の岡部館長さんよりレポートが送られてきました。
以前、以命亭に調査に行った時に桃観トンネルの長さの話をしました。その後,岡部さんが調べ直ししてくださいました。そのレポートです。
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桃観燧道の長さにについて H18.9.8
浜坂先人記念館以命亭岡部良一
明治45年の開業当時には1841㍍であった桃観隧道が、現在では1991㍍となっている。この問題は産経新聞連載の「但馬の近代化遺産を訪ねて」により、明確となった。
つまり、山崩れ防護のための隧道延長が行われていたのである。
これは、大正7年(1918)9月13日~14日の台風による大水害(鳥取県~兵庫県北部が大被害)後の復旧本工事にともない行われたのである。
以下、随道について当時の新聞、『鳥取新報』と『神戸又新(ゆうしん)日報』の記事をたどってみる。
《大正7年9月の大水害の被害》
・田地の流失埋没=1200町歩、死者:120余人、倒壊家屋;400戸(但馬のみ)
・鉄道被害:300余ケ所(米子運輸事務所管内)当時は香住が分岐点。
■大正7年9月13日~14日桃観隧道東口の余部西川が大氾濫し、山津波が発生。その土石流が隧道内に流れ込み、隧道西口より駅構内に流入し、久谷村に押し寄せ、3家屋倒壊。
鉄橋の流失と並ぶ山陰線最大の惨事となる。つまり10年足らずで隧道は埋まってしまう。
桃観隧道は久谷に向かってゆるやかに傾斜していた。以後昼夜兼行で復旧工事に着手。
この間、諸寄に臨時駅を設け、諸寄港から香住までは船で連絡。
■大正7年11月18日2ケ月ぶりに開通。但し、応急処置のため、現場は徐行運転。
以後、本格的防災工事に着手する。測量、設計は、冬の降雪時期に実施、本工事は雪解けを待って実施の予定。桃観隧道東口は、側を西川が流れているため、山崩れ防止のための保護隧道を150㍍余部側に延長する。田君川・岸田川。対田川に関しては橋梁の拡を倍以上に拡張する。
■大正8年4月隧道、橋梁、土手など本工事開始。
■大正9年8月隧道工事竣工、
田君川・岸田川・対田川橋梁の拡幅工事は以後も継続。
☆大正9年10月1日徐行を解除して2年ぶりに平常ダイヤに復帰。(完全復旧〉
★経費(米子運輸事務所管内)当時は香住が分岐点
300万円(応急復旧工事費用。。150万円、本工事費用・・150万円〉
以上
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これで桃観トンネルが当初よりトンネル延長が伸びたことが明確になった。
トンネル上部にあったアーチ橋は大正7年の風水害の復旧工事で作られたことだと核心が持てる。
▼添付されていた新聞記事をUP(クリックすると大きくなります)
鳥取新報 10月24日 鉄路上の惨虐を観て
鐡路上の慘虐を視て
洪水破壊の跡を踏破って沿線に工夫千余名戦場の俤
久谷鎧間
久谷駅の被害は最大なるものである。桃観隧道の西口の山が滑って停車場内に突入したために貨物倉庫を全潰となし次いでプラットホームを砕き尚余勢は駅内の各所を荒らしている。其原因は同隧道の東口を流るる西川の濫水が流入した為山滑りとなり、其水勢は乗客プラットホームに築き上げたる土砂を奪って大被害を与え民家三戸をも流失した。其復旧工事には人夫百数十名を使役し目下従事し間もなく竣工する見込みであって列車の運転には大なる障害はあるまい、勿論信号機の破壊もあったが其復旧は知れたものである。久谷駅長は不幸にして面談の余暇がなかった。桃観隧道一名久谷隧道の被害には沿線中第一で復旧工事の遅延もその為である抑も桃観隧道は高さ九百尺しかも急峻な桃観峠の下を延長六千四十尺に渉って穿つた最大難工事のものである。その西口には大なる被害はなかったが東口の被害は前記久谷駅を荒した西川の氾濫によって山崩れを引起し被害は実に言語に絶する。恰も東口は久谷駅○ら西に向かって六十六分の一の急勾配を示している関係上山崩れの土砂は 慮なく隧道内に進入した土砂は千二百尺の延長に渉って堆積し、その堆積数量は六〇〇立坪と言われている。中には石工に依って粉砕せねば搬出せられない大岩石が流入した隧道以外に千百立坪の土砂が積もっている目下その搬出につき東口よりは香住の人夫西口よりは浜坂西本組の人夫が合計三百名で工事を急いでいる。然るに隧道の入り口は高さ十八尺幅の最廣のところ十五尺であるから土砂の運搬に甚だ困難を感じ、目下トロッキーにて一日六間位の搬出しか出来ない。加ふるに東口には隧道の穴の上に更に六尺余りの土砂が積っているから全く何処が隧道であるかが判明せぬ。工事係の談によると「目下の工程で進んだならば土砂取除きに以後百二十日を要する計算になります。現在では人夫を多数使役しても場所の狭○の為に働く事が出来ません。然し漸次土砂の取除きが進み奥に進む路が出来れば人夫も多く使役し又工程も歩合が進んで来ますから百二十日を費やす事は断じてありません。ご承知でもありませうが十一月下旬には是非とも開通させるためにその計算で施業中です」人の通行には五尺余の穴を穿つて行っているが其様は恰も が其の穴に出入する様はご同一で其状況は目撃したもののみが了解する事が出来る。
▼ 神戸又新(ゆうしん)日報 (クリックすると大きくなります)
大正7年10月7日 ~村民、鉄道を呪う「北但大惨害地視察 第14報」~

北但大災害地視察 第14報
■ 村民鉄道を呪う
・山陰鉄道敷設の土堤から吹き出した大水
・人家を倒し人を殺し田地を埋め尽くした
雪崩の名所 久谷村
○○○城崎南部を通じて最も惨害の甚しかったのは大庭村役場部内であった。溺死が男12人女10人圧死が男6人女9人合計37人 云う死亡数である。しかも地も畑地も全く荒廃して菜葉一得る所無い。その役場部内で最も被害程度の甚かつたのは藤尾村である。悲惨事中の■悲惨時を極めた藤尾村を去った自分は浜坂町へ出た徘徊中、鉄道線路の築堤が崩壊して居るのを数箇所認めた。浜坂町を○○る所住家に浸水したそうだが○崎○程の惨状ではなかった。然るに○○○町の被害が無いのでは無い ○四日の暴風雨で海上に海嚧を祀し○町海岸は廣い間は怒○に噛み取られた。為に住家が■数戸倒壊した。幸い被害者は無かったが其の付近一帯○○○呈して居る。だが、温泉、射添、八田、大庭の大惨害○○○には戦慄する程の感は無かった。それから西浜村に行くと同○○の諸寄には死者が一人あって大○川の沿岸の田地は目の届く限り土砂に埋められていた。浜坂町○内の和田も山崩れが甚かつた為に田地は■全く埋められ成は流されて辻も復○(旧)の見込みはない。今年の米収穫は無論皆無である。来年になっても稲を植えつける程の○○○○か○○か疑わしい。浜○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○久谷線に出るが、駅の真下にある久谷村の惨状といったらまた身の毛の餘立つ想いがする。同線から少し西になった所は山と村の間に高さ■約十餘間もあろうと思われる高い土提を築き、其の上に鉄道線路が敷設してある。久谷村民家が圧倒され死者を出したのはこの土提が山崩れと同じ如に恐ろしい水を吹き出して崩壊して下の民家を押し倒し押し流しのだ。其の一方では山陰線の最長と云われる6040フィートの桃観隧道東口から隧道内へ流れ込んだ■大出水が、西口から吹き出して久谷村へ土砂と一緒に流れ込んだ。この二つの大悪害に加えて前後の山々から山崩れがして低地の同村を襲ったのだ。
久谷の村が全滅の○○に陥ちたのも無理はない。同村は年々冬季に右の鉄道線路の土提に積な雪崩のために家を倒され死人を出す。昨年の冬にも其の例がある。それで村民は鉄道を■悪魔の如に呪っている。其処へ今度の大被害を蒙ったのだから村民は堪忍の尾を切って鉄道線路を他所へ持って行けと鉄道員に迫っている。同村の或人は毎年鉄道のためにこの村のものは苦しめられています。単に苦しめられるだけではなく財産を奪われ人間の生命を犠牲にされます。今度はまたあの高い■土提が崩れた為に人家を倒壊され人命を損なわれ耕地を埋められ再び起つことのできない憤害を受けました。昨年雪崩のために家が倒れ死人があった時にも鉄道院はたった四十圓のお見舞金を出して木で鼻活る如な挨拶をした限りでした。今度の大損害に対してもまだ一○村民に対する挨拶も致しません。ですから村中の者は非常に■激昂して今度鉄道院が若しこの村内に線路修繕の為を云って枕木一本持ち込んでも其の地所に貸してやら無い。石一個も村内には置かせないことを決議しました。鉄道院が法律を振りかざして来るなら法律で攻めて来い。此方 は生死を的にして防ぐのだと云って出ます。今後も云う今度は鉄道を此村から跳ね退けりや■承知致しませんと憤慨の○を漏らしていた。此言う以ってしても同村の被害が如何に激甚であったかが想像されよう。更に久谷駅に駅長を訪ねると、駅長の語る惨話は聞く者の膚に粟を生ぜしめた。(久谷村にて特派員)
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とにかく凄い大惨事だったようです。
しかしこの大惨事は福知山鉄道管理史にも記述されていなく、他にも文献はなく、誰も詳しく知る人もいなかった。今まで桃観トンネルのことを賛美してきただけにこのような大惨事がありこのように地区の住民の人が鉄道に対して思っていることには凄く驚いた。
今回、私たちが近代化遺産を調査する中で疑問に思っていたことが、事実として知り得ることができた。それもとても貴重な出来事のことです。山陰線開通100年まであと数年。
初めて明かされた(?)事実がここにあった。
このようにこと細かく色々と調べていただいた岡部館長さんにお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
■ 桃観トンネル 明治44年
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香美町にある餘部鉄橋からさらに国道178号線を西に行くと餘部と久谷の間に桃観(とうかん)峠があります。九十九曲がりの難所で峠を越すと「もも股がうずく(痛む)」といわれたぐらい険しい峠で、この嶮しい山岳地の地中に鉄道院時代に造られた桃観トンネル(桃観大隧道)があります。
餘部鉄橋は多くの文献があり多くの人々に注目されている反面この桃観トンネルは鉄橋と違いあまり知られていないのが現状です。
▼ 地図(クリックすると大きくなります)

■工事の概要■
山陰線の中で一番の難所で工事の困難な場所が香住~久谷の工区であり、山陰線全面開通もこの工区を残すだけとなった明治41年より工事が始まります。この桃観トンネルは山陰線の中で一番長い6040フィート(1991m)の長さで、約4年間の年月を費やし当時の金額で61万円(次に長い芦谷トンネル6029フィートは52万円)という巨費を投じて明治44年12月に竣工しました。工事は西より東に向いて上り勾配を利用して掘削は久谷側の西口から始まりました。
▼ トンネルの掘削開始

空気圧搾機や削岩機で掘削を進め、新鮮なる空気を供
給し作業をおこなうという当時の技術の中でも最も近代的工法を採用し工事が進められました。山陰西線(鳥取~香住)において始めて機械掘削が試みられた。一方反対側の東口は手堀で掘削に着手したものの湧水が多く、水を汲み出すため水力発電を設備し電気ポンプを設置して湧水を汲み上げ排水しましたが、湧き出る水は日ごとに多くなりポンプの能力が間に合わなくなり発電力を増すため新たに火力発電の設備も設置し明治44年2月11日に貫通しました。このトンネルの工事は坑内に一定の間隔で電灯を灯し又東口に電気扇を装置して新鮮な空気を送るなど、工事中の作業環境に配慮しながら工事が進みました。また西口方面にもトンネルと地層の薄い場所に永久的な風孔を造り、後の機関車の煙害に備えたことはとても価値のあることと記述してあります。
▼ 東側入口の風孔
約6.5m×4m高さが地盤面より4.5mぐらい地上に突き出た大きな塔

▼ 国道より見る

▼ 西側出口の風孔
藪の中に隠れるようにある。高さが地盤面より1.5mぐらい


▼ 内部をみる


■ 文献と違うトンネルの長さ
桃観トンネルは山陰線の中で一番長い6040フィート(前出)と鉄道管理史には書いてあるが
1フィート=0.3048mこれを単純に計算すると0.3048m×6040フィート=1840.99m
しかし入口には

1991.91mの数字が掲げtれある。この差約150m さてこれは何でだろう??
■ 東側入口の上部にある水路(なぜアーチ橋?)

▼ 水路から出た小さい水路(昭和にできたもの)


トンネルの上になぜアーチ橋なのか?
① トンネルの上に水路の加重をかけたくないためアーチ橋にした。
② 元々はこの水路はオープンでトンネルの上にあったものではない。
の二点が考えられる。
レンガでできたアーチ橋は県下においてもとても珍しく、もちろん但馬では唯一この橋だけです。
郷土史家の下田さんに聞くと「大正9年ごろの大雨で山が崩れ土砂でトンネルが埋まり、新たに掘り直して現在の入口になったようです。その時にトンネルの長さも当初より長くなった。」と話してくださいました。
これなら納得できる。が、文献には長くなった記述はどこにもない。
■ トンネルの長さを裏付ける証拠
トンネルの出入口を坑門と呼び車両や人々がくぐる門として様々なデザインが工夫してあります。いわゆる人間の顔に当たる部分です。この出入口のデザインは入口も出口も同じだろうと思っている人が多いようです。が桃観トンネルは違っていました。
▼ 東側入口

▼ 西側出口

何かが違うのがわかるでしょうか。壁柱が東側入口にはありません。
▼ 坑門のデザイン

出来上がった当時の写真
▼ 東側入口の写真

▼ 西側出口の写真

明らかに東側入口の坑門は改造されています。それもレンガで造られているので明治44年に出来た間もないころに作られたものと考えられます。
となれば、水路のアーチ橋は②の元々は線路の上に架かったアーチ橋と考えられます。
▼ さらに東側入口を大きくすると

トンネルの入口上部は石で固められています。現在とは違います。また後方に見える小屋は建設当時の電気扇を装置して新鮮な空気を送る場所で現在の風孔に当たる部分と考えられます。(入口と出口の違いは石額が証拠になります)
■ 桃観トンネルの石額
当時、鉄道院総裁だった後藤新平氏の書いた石額が各入口の上部に掲げてあります。山陰本線の最後の難工事を明治43年に視察しに来た後藤新平総裁が餘部鉄橋、桃観トンネルの完成を記念し書かれました。実際このように石額を掲げたトンネルは全国においても数例しかなく貴重な存在であると書かれています。
▼ 石額

『香住側入口には「惟徳罔小」(この徳は少なくない)浜坂側出口には「萬方惟慶」(萬方これを喜ぶ)すなわち桃観トンネルの開通は四方八方の人が喜ぶところであり、この開通には利便の徳は、大変大きいという意味であろう。』
▼ 開通前のトンネル

▼ 後藤総裁

■ 要石(キーストーン)
もう一つこのトンネルにはアーチ部分に要石(キーストーン)というくさび状に石があります。山陰線には沢山トンネルがありますが要石があるのは桃観トンネルだけと文献には書かれてありました。
▼ 西側出口の石額と要石(キーストーン) 東側入口には要石はない。
■ 多くの労働者
それは餘部鉄橋や桃観トンネルの難所の工事には朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)が集中的に投入されたようです。約200名の労働者がいたと書かれた文章もありました。 明治43年(1910年)の「日韓併合」以前から日本の鉄道工事現場で多数の朝鮮人労働者が働いていたようです。難所工事であるため殉職者や病死した人もおり、その人々の名は桃観トンネル西口近くにある久谷八幡神社の中に『鉄道工事中/職斃病没者/招魂碑』と刻まれた石碑に刻まれています。
▼ 久谷八幡神社にある招魂碑

▼ 裏側に書かれている人名他(クリックすると大きくなります)

■ 西光寺のレンガ塀
「当時、西光寺では桃観トンネルの完成後、工事で犠牲になられた人のために追弔会をし、民族の区別なく、亡くなった人の弔いをした。」ということを聞きました。朝鮮人の人たちが中心になり西光寺にそのお礼の意味としてレンガの塀ができたようです。
▼ レンガ塀


▼ 塀の下部はフランス積み

▼ レンガの積み方

手間のかかるフランス積みですが、他のどれよりもきれいな姿の塀を造るという当時の人たちの思いがこのレンガ塀から伝わってきます。それを意味したのか、桃観トンネルの両口には当時、鉄道院総裁だった後藤新平の「惟徳罔小」(この徳は少なくない)「萬方惟慶」(全ての人がこれを慶ぶ)という石額が掲げられています。
※ 参考文献 鉄道と煉瓦 福知山鉄道管理局史 民団トピックス 但馬学研究会11月例会資料 写真でつづる浜坂町