■ 桃観トンネル 明治44年
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香美町にある餘部鉄橋からさらに国道178号線を西に行くと餘部と久谷の間に桃観(とうかん)峠があります。九十九曲がりの難所で峠を越すと「もも股がうずく(痛む)」といわれたぐらい険しい峠で、この嶮しい山岳地の地中に鉄道院時代に造られた桃観トンネル(桃観大隧道)があります。
餘部鉄橋は多くの文献があり多くの人々に注目されている反面この桃観トンネルは鉄橋と違いあまり知られていないのが現状です。
▼ 地図(クリックすると大きくなります)
■工事の概要■
山陰線の中で一番の難所で工事の困難な場所が香住~久谷の工区であり、山陰線全面開通もこの工区を残すだけとなった明治41年より工事が始まります。この桃観トンネルは山陰線の中で一番長い6040フィート(1991m)の長さで、約4年間の年月を費やし当時の金額で61万円(次に長い芦谷トンネル6029フィートは52万円)という巨費を投じて明治44年12月に竣工しました。工事は西より東に向いて上り勾配を利用して掘削は久谷側の西口から始まりました。
▼ トンネルの掘削開始
空気圧搾機や削岩機で掘削を進め、新鮮なる空気を供
給し作業をおこなうという当時の技術の中でも最も近代的工法を採用し工事が進められました。山陰西線(鳥取~香住)において始めて機械掘削が試みられた。一方反対側の東口は手堀で掘削に着手したものの湧水が多く、水を汲み出すため水力発電を設備し電気ポンプを設置して湧水を汲み上げ排水しましたが、湧き出る水は日ごとに多くなりポンプの能力が間に合わなくなり発電力を増すため新たに火力発電の設備も設置し明治44年2月11日に貫通しました。このトンネルの工事は坑内に一定の間隔で電灯を灯し又東口に電気扇を装置して新鮮な空気を送るなど、工事中の作業環境に配慮しながら工事が進みました。また西口方面にもトンネルと地層の薄い場所に永久的な風孔を造り、後の機関車の煙害に備えたことはとても価値のあることと記述してあります。
▼ 東側入口の風孔
約6.5m×4m高さが地盤面より4.5mぐらい地上に突き出た大きな塔
▼ 国道より見る
▼ 西側出口の風孔
藪の中に隠れるようにある。高さが地盤面より1.5mぐらい
▼ 内部をみる
■ 文献と違うトンネルの長さ
桃観トンネルは山陰線の中で一番長い6040フィート(前出)と鉄道管理史には書いてあるが
1フィート=0.3048mこれを単純に計算すると0.3048m×6040フィート=1840.99m
しかし入口には
1991.91mの数字が掲げtれある。この差約150m さてこれは何でだろう??
■ 東側入口の上部にある水路(なぜアーチ橋?)
▼ 水路から出た小さい水路(昭和にできたもの)
トンネルの上になぜアーチ橋なのか?
① トンネルの上に水路の加重をかけたくないためアーチ橋にした。
② 元々はこの水路はオープンでトンネルの上にあったものではない。
の二点が考えられる。
レンガでできたアーチ橋は県下においてもとても珍しく、もちろん但馬では唯一この橋だけです。
郷土史家の下田さんに聞くと「大正9年ごろの大雨で山が崩れ土砂でトンネルが埋まり、新たに掘り直して現在の入口になったようです。その時にトンネルの長さも当初より長くなった。」と話してくださいました。
これなら納得できる。が、文献には長くなった記述はどこにもない。
■ トンネルの長さを裏付ける証拠
トンネルの出入口を坑門と呼び車両や人々がくぐる門として様々なデザインが工夫してあります。いわゆる人間の顔に当たる部分です。この出入口のデザインは入口も出口も同じだろうと思っている人が多いようです。が桃観トンネルは違っていました。
▼ 東側入口
▼ 西側出口
何かが違うのがわかるでしょうか。壁柱が東側入口にはありません。
▼ 坑門のデザイン
出来上がった当時の写真
▼ 東側入口の写真
▼ 西側出口の写真
明らかに東側入口の坑門は改造されています。それもレンガで造られているので明治44年に出来た間もないころに作られたものと考えられます。
となれば、水路のアーチ橋は②の元々は線路の上に架かったアーチ橋と考えられます。
▼ さらに東側入口を大きくすると
トンネルの入口上部は石で固められています。現在とは違います。また後方に見える小屋は建設当時の電気扇を装置して新鮮な空気を送る場所で現在の風孔に当たる部分と考えられます。(入口と出口の違いは石額が証拠になります)
■ 桃観トンネルの石額
当時、鉄道院総裁だった後藤新平氏の書いた石額が各入口の上部に掲げてあります。山陰本線の最後の難工事を明治43年に視察しに来た後藤新平総裁が餘部鉄橋、桃観トンネルの完成を記念し書かれました。実際このように石額を掲げたトンネルは全国においても数例しかなく貴重な存在であると書かれています。
▼ 石額
『香住側入口には「惟徳罔小」(この徳は少なくない)浜坂側出口には「萬方惟慶」(萬方これを喜ぶ)すなわち桃観トンネルの開通は四方八方の人が喜ぶところであり、この開通には利便の徳は、大変大きいという意味であろう。』
▼ 開通前のトンネル
▼ 後藤総裁
■ 要石(キーストーン)
もう一つこのトンネルにはアーチ部分に要石(キーストーン)というくさび状に石があります。山陰線には沢山トンネルがありますが要石があるのは桃観トンネルだけと文献には書かれてありました。
▼ 西側出口の石額と要石(キーストーン) 東側入口には要石はない。
■ 多くの労働者
それは餘部鉄橋や桃観トンネルの難所の工事には朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)が集中的に投入されたようです。約200名の労働者がいたと書かれた文章もありました。 明治43年(1910年)の「日韓併合」以前から日本の鉄道工事現場で多数の朝鮮人労働者が働いていたようです。難所工事であるため殉職者や病死した人もおり、その人々の名は桃観トンネル西口近くにある久谷八幡神社の中に『鉄道工事中/職斃病没者/招魂碑』と刻まれた石碑に刻まれています。
▼ 久谷八幡神社にある招魂碑
▼ 裏側に書かれている人名他(クリックすると大きくなります)
■ 西光寺のレンガ塀
「当時、西光寺では桃観トンネルの完成後、工事で犠牲になられた人のために追弔会をし、民族の区別なく、亡くなった人の弔いをした。」ということを聞きました。朝鮮人の人たちが中心になり西光寺にそのお礼の意味としてレンガの塀ができたようです。
▼ レンガ塀
▼ 塀の下部はフランス積み
▼ レンガの積み方
手間のかかるフランス積みですが、他のどれよりもきれいな姿の塀を造るという当時の人たちの思いがこのレンガ塀から伝わってきます。それを意味したのか、桃観トンネルの両口には当時、鉄道院総裁だった後藤新平の「惟徳罔小」(この徳は少なくない)「萬方惟慶」(全ての人がこれを慶ぶ)という石額が掲げられています。
※ 参考文献 鉄道と煉瓦 福知山鉄道管理局史 民団トピックス 但馬学研究会11月例会資料 写真でつづる浜坂町