■ JR八鹿駅と三つの謎
JR八鹿駅 明治41年7月1日 開設
▼ 駅舎全景 昭和9年3月改築
駅舎本屋 昭和9年3月改築 (開設は明治41年7月1日)
乗降場上屋改築及び新築 昭和9年3月 昭和23年3月 昭和23年7月
跨線橋設立 昭和30年1月(旧跨線橋撤去後)
島式・相対式2面4線のホームを持つ地上駅で、木造スレート葺きの駅舎。
▼ 駅舎上屋 中央駒型のデザインは
日高町商工会館の外壁と同じ。
▼ 開設当時の駅舎
▼ 木製の跨線橋 昭和12年
▼ 昭和29年の駅舎 バックに建設中の跨線橋が見える。当時は屋根は瓦だった。
★★ 疑問 1 ★★
明治44年に開設されたときの上屋がいつの間にか昭和9年に改築されている。
文献がまったくなくわからない。不況下のなかでなぜ駅舎を改築したのか?(火事や災害などの記録もない)
昭和9年3月とわかるのは建物財産標と
但馬往来見聞録のHPからである。
▼ 建物財産標
▼ 上屋の洋小屋組 昭和9年
▼ 昭和23年の洋小屋組 こちらのほうが部材が大きい
▼ 跨線橋から建物を見る
▼ 対岸から見る。低い屋根(白くなっている)が昭和9年 手前の高い屋根が昭和23年(わかりにくいが・・)
★★ 疑問 2 ★★
誰もがわからない駅舎中央壁面にある星型の窓。いく重もの縁取りをした豪華な窓です。
▼ 窓のデザイン
窓の緑色のガラスはプラスチックでした。これは残念でした。
決定的な証拠はないが「八芒星」や「八光星」と考えたらどうなるのでしょうか。
「八芒星」と検索すれば色々なものが出てきます。ここでは
早稲田大学の図書館のHPを見てください。
「八光星」といえは札幌グランドホテルのロゴがあてはまります。ホテルの方に写真を送っていただきました。グランドホテルの方より「現在の「北海道章」「北海道旗」でも使用されている「七光星」と同じように北海道開拓使が使用した「北辰旗」と「サッポロビール」「札幌農学校」などで使用されていた「北極星」をシンボルとしたロゴマークと関係があると思われます。弊ホテル誕生の経緯で「北海道庁」「札幌商工会議所」が絡んだ「国営ホテル」としての性質上、「八光星」を使用したと思われるとの推察しか出来ない状況です。」
▼ 札幌グランドホテル
別館入口
チャペルの前天井
宴会場シャンデリア
他 八光星でさがすと
北海道檜山北高校の校章がヒットしました。
「星芒形を2個組み合わせ、八光星を形づくり、四方八方への輝きから将来への本校の躍進を象徴した。」
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近隣では豊岡劇場のメダリオンと豊岡小学校の窓にこの形状があります。
▼ 豊岡劇場
▼ 豊岡小学校の渡り廊下
豊岡小学校昭和11年に建てられた校舎にも同じマークがあったらしいです。
こうやって考えると結構使われています。大阪の綿業会館にもあったような記憶もあります。当時の流行だったのでしょうか。
それとも単純に「八鹿の八」をモチーフにしたデザインかもしれません。(昭和22年ごろまではやおか駅と呼んでいましたし。)
▼ 昭和22年の駅名
★★ 疑問 3 ★★
八鹿駅の跨線橋
日本の近代土木遺産2800のなかでBランクに入る。(文中の(元)瀬戸駅 跨線橋というのは間違いだと思います。ちなみに和田山機関後はCランク)です。それだけこの跨線橋はすごいものなのでしょうね。ちなみに最近加古川にある
平木橋(Bランク)が移築保存されようとしています。
JR竹野駅やJR柏原駅、福知山の
石原駅など全国にもまだまだ沢山残っているようです。構内で一番古いのは島根県の大田市駅にある跨線橋が一番古く明治23年です。事務所仲間ニ「頼んでわざわざ撮っていただきました。
▼ 大田市駅跨線橋 (Aランク)
ここは木製のささら桁である。1957年の刻印があったらしい。
かすかに「○.G.R.MAKERS.KOBE.1890」と言う刻印がわかったらしい。
内部も今までと違う
▼ 柏原駅
東京月島○○製作所製造?の刻印
鉄道院 と大正四年二月の刻印
さて 跨線橋の内容は
JR竹野駅を参照してください
■八鹿の跨線橋
・ 八鹿の文化財より
この鉄橋は、昭和30年1月に福知山駅から八鹿駅に移転されたことが分かっています。しかし鉄橋の柱には「明治四十・鐡道新橋」という銘文が刻まれています
結論を言いましょう。新橋いうのは逓信省帝国鉄道庁の新橋工場のことで、現在の東京の汐留駅付近にありました。鉄橋は明治32年ごろから作られ初めます。八鹿駅の鉄橋は、新橋工場で作った鉄橋を明治40年に福知山駅に組み立てたものです。
今は撤去された鉄橋もありますが、鳥取駅が「明治四十一・鉄道神戸」、出雲市駅が「明治四十四年・鉄道神戸」、松江駅が「明治四十・鉄道新橋」でした。松江駅と八鹿駅の鉄橋は、同じ工場で作られた兄弟の鉄橋です。
八鹿駅の鉄橋の柱は鋳物製で、長方形の柱の上に先細りのエンタスシスを模した円柱を重ねています。また円柱の上には四角形の受部が付いいます。こうした柱材は西洋建築を模して作ったもので、明治の文明開化の時代を象徴しています。
八鹿駅の鉄橋は、山陰本線を国営鉄道として建設する意気込みに燃えた時代のシンボルです。これは関西地方の跨線橋でも、現役で最古の一つでしょう。明治41年7月1日、八鹿駅まで鉄道が開通し、但馬から歩いて大阪へ行く時代が終わりました。 (八鹿の文化財より)
▼ 建設中の福知山跨線橋(これが八鹿に来たかどうかは不明、福知山鉄道管理局史より)
▼ 跨線橋(下り方面から見る)
跨線橋は多くあるが明治時代の鋳物の柱を使った跨線橋は但馬では八鹿駅と竹野駅だけ。
ブレス構造の跨線橋は、竹野、八鹿、生野駅だけである。ともにどこかの駅で使われていた物を移築していると考えられる。
▼ 跨線橋(上り方面から見る)
▼ 跨線橋を支える鋳物の柱脚。
新橋製の柱脚は
アプトのHPでも紹介されている。
▼ かすかに「鐡道新橋 明四十」の浮き出た文字がわかる。
▼ 柱脚の根元。埋め込まれているのがわかる。
▼ ささら桁はプレートで竹野駅のようなトラスではない。どちらが古いのだろうか?
▼やはり柱頭と柱頭の間は内樋になっている。丸いのが樋
▼ 鋳物の柱の内部が縦樋になっておりホームに雨水を流している。
▼ 跨線橋の内部
▼ フレームのアップ
▼ 跨線橋のブレスを見る。フラットバーが二本で構成されている。
この八鹿の跨線橋をまとめるのに結構時間がかかりました。
下記の方々おせわになりました。
札幌グランドホテルの風間さま
大田市駅のことを教えてくださった
「橋の散歩径」のGOTOUさま
大田市駅にわざわざ写真を撮りに行ってくださった
飴屋工房 足立様
福知山の石原駅を教えてくださった
「まちかどの西洋館」のたなべさま
ありがとうございました。また情報がありましたらお教えください。